いやーまたしても名文を見つけてしまいました。
今日はどんな?
コチラ。
教育とは人間尊厳の聖火を若い魂に点す崇高な行為であって、教師はその聖職に携わる立派な人間――それはその通りだが、そのようなお題目に酔ってしまうのは、一億総中流のカラオケの響きにうっとりするのと同じで、あとの宿酔の気分の悪さが倍加されるだけだ。たまには、奨学金制度は社会階級的雑種犬の養育だと言う、不快な音で耳を洗うのもためになる。
詳しくは続きを読むで。
シニカルを極めた一文ですね。教育関係者、カラオケ好き、奨学金受給者、あらゆる方面の方を怒らせそうです。
じゃろう? これを読んだ人の実に7割超が、人生で一度は言ってみたいセリフランキングを変動させると、私は推測している。
(……日本人の7割超がこんな皮肉屋であってたまるものか)
この文章の引用元の本『英国流立身出世と教育』は、英国文学を題材にして、教育に潜む建前と本音の微妙な食い違いに迫り、一億総中流社会の日本の教育意識に警鐘を鳴らそうという一冊。決して、陳腐な言説を煽るだけの本ではないと言っておこう。
さて、そんな『英国流立身出世と教育』から抜き出した、今日の一文についてだが。
はいはい。M子先輩的な魅力はどこにあるんです?
ずばり、イメージの連携がとてもうまいことだ。
イメージの連携?
文中に現れる単語同士が絶妙にお互いを連想させあっているということだ。
はあ。
たとえば、「一億総中流のカラオケの響きにうっとりするのと同じで、あとの宿酔の気分の悪さが倍加されるだけだ」という文章では、次のような連想ゲームが出来る。
一億総中流
→(70年代からの日本)
→(同時期に登場した)カラオケ
→(素人の歌声に)うっとりする(愉快な飲み会)
→二日酔い
→(あんな下手な歌の何がよかったのかという)気分の悪さ
太字は原文の中に含まれている言葉、()内に書いたのは暗に連想される言葉だ。
なるほど、確かに連想ゲームになっています。
じゃろう? この連想ゲームを()内の言葉も全てつぎ込んで、通常の文章を書き下せば次のようになる。
70年代の一億総中流社会と共に登場したカラオケの、素人の歌声にうっとりする飲み会と同じで、あとの二日酔いの「あんな下手な歌の何がよかったのか」と後悔する気分の悪さが倍加するだけだ。
だいぶテンポが悪い一文となった。これでは読者は内容を理解するのに精いっぱいで、これが皮肉であることすら伝わらない。
原文にあった鋭利なシニカルさは完全に消え失せていますね。
いい皮肉は、読む速度に対して、内容の理解とユニークさの理解が同時に訪れるものだからな。理解がスリーテンポ以上遅れたら悪文なり。
とすると、今日の一文は言葉の連想ゲームから必要最低限だけを抜き取って、最大効果の皮肉を作り出したということですね。
その通り。しかし、それだけではないぞ。
なんです?
この連想ゲームは我々がマジカルバナナの掛け声で行うような、一方通行的な連想ではない、ということだ。
というと?
今解説した前後の文章についても連想ゲームをやってみよう。引用文をもう一度貼っておく。
①教育とは人間尊厳の聖火を若い魂に点す崇高な行為であって、教師はその聖職に携わる立派な人間――それはその通りだが、そのようなお題目に酔ってしまうのは、②一億総中流のカラオケの響きにうっとりするのと同じで、あとの宿酔の気分の悪さが倍加されるだけだ。③たまには、奨学金制度は社会階級的雑種犬の養育だと言う、不快な音で耳を洗うのもためになる。
小池滋(1992)『英国流立身出世と教育』p196、岩波書店
下線と丸番号は筆者が付け足しました。
番号ごとに連想ゲームをしてみると次のようになる。例によって、太字は原文に登場する言葉。()内は暗に連想される言葉だ。加えて重要なポイントを赤字強調しておいた。
①教育とは人間尊厳の聖火を若い魂に点す崇高な行為であって、教師はその聖職に携わる立派な人間
→(ありふれていて耳心地のよい言説)
→(カラオケで歌うような歌詞)
→それはその通りだが(と思わせるような正論)
②一億総中流
→(70年代からの日本)
→(同時期に登場した)カラオケ
→(素人の歌声に)うっとりする(愉快な飲み会)
→二日酔い
→(あんな下手な歌の何がよかったのかという)気分の悪さ
③奨学金制度は社会階級的雑種犬の養育
→(捻くれていて耳心地の悪い言説)
→(カラオケでは歌えないような歌詞)
→不快な音
連想の中に「カラオケ」が何度も出てきます。
私が意図的にそう解釈しているからな。
ただ、私の解釈した連想が正当性を帯びるなら、それはカラオケという比喩が前後の文章を貫いているということだ。
はぁ。
たとえば③に見える「不快な音」という表現は、「不快な言説」にした方が意味の通りはよい。それを「言説」ではなく「音」を採用したのは、文章の地脈を貫く「カラオケ」に「音」が連想されるからであろう。
また「不快な音で耳を洗う」という表現は一見おかしく、「澄んだ音で耳を洗う」にすべきではないかと思うが、それもカラオケの比喩によって説明できる。
「澄んだ音」はカラオケの騒音の中では聞こえない。聞こえたとしてもそれはカラオケの響きの一種に解されて、すぐに忘れ去られてしまう。
一億総中流と浮かれるカラオケの響きを切り裂くには、「澄んだ音」ではなく、人々を強制的に振り向かせるような「不快な音」が必要なのだ。
奨学金制度は社会階級的雑種犬の養育。このように歌の歌詞にも出来ないような不快な言説であってこそ、綺麗事に酔いしれる人々を振り向かせる。
だからこそ、「澄んだ音で耳を洗う」ではなく「不快な音で耳を洗う」という表現が採用されたのだろう。不快と正面から向き合ってこそ、人は前進することが出来る、という著者の思いが垣間見える。
こうなってくると、私にはもう①にある「お題目」――「教育とは人間尊厳の聖火を若い魂に点す崇高な行為であって、教師はその聖職に携わる立派な人間」が、カラオケの歌詞に見えてままならない。
一億総中流のカラオケの響き。これは文章を貫く地力を持つ素晴らしい比喩表現なのだ。決して、ただのマジカルバナナで始まる連想ゲームのように、流れては消えてゆく言葉の中にたまたま「カラオケ」が出てきたのではないぞ。
この連想ゲームは初めから最後まで「カラオケ」という比喩が貫いていたのだ。
ふむ、なるほど。確かにこの文章内では「カラオケ」という比喩で一貫した説明が可能ですね。
じゃろう?
そういえばなんですけど、「不快な音で耳を洗う」というのは、この前記事で紹介した「粘り気のある滑稽さ」の仕組みににていますね。↓記事参照
え?
ほら「粘り気のある滑稽さ」は
「プラスイメージの形容詞」+「マイナスイメージの名詞」
=粘り気のある + 滑稽さ
=粘り気のある滑稽さ
=一つの単語では表現できないような独特の意味合い
だったでしょう?
「不快な音で耳を洗う」も図式とは少し違いますが
「マイナスイメージの言葉」+「プラスイメージの言葉」
=不快な音 + 耳を洗う
=不快な音で耳を洗う
=一つの単語では表現できないような独特の意味合い
となっています。正負のイメージが一つの文章の中でぶつかりあっているから、特異な表現になる。
なるほど、やっぱり君優秀。
そこの所も含めてK林教授に報告しにいこう。
はーい。
(……)
(……普通の人なら、優れた理論が文章を貫くというところを、言うところを、M子先輩は優れた比喩が文章を貫くと主張します)
(しかし、比喩表現と言うのは理論を詳しく説明するための装置であって、それ自体に実体はないはずです。実体があるのは比喩ではなくむしろ理論の方なのです。)
(にも拘わらず、理論よりも比喩を第一に持ってくるM子先輩はやはり神秘主義と言うべきでしょう)
(今後も神秘主義M子の名文紹介にこうご期待)