今日も名文紹介をやっていく。
カモンカモン。
今回の名文はコチラ。
少し長いから文章の構造を解りやすくするために、下線を引き、各部に番号を振り分けたぞ。
①貨幣論のテキストでは、貨幣とは、勘定の基準単位(円とかドル)で測られ、その単位で表された負債を、確実性をもって返済できる極めて流動的な資産、と定義されている。この定義自体に含まれる「確実性をもって」とか「極めて」という言葉が示すように、どの資産が貨幣たりうるかは「程度」の問題とならざるをえない。②かつてハイエクは「貨幣」を名詞として用いるのは難しいが、「貨幣的」という形容詞に関する理解は意外に共通するものがあると述べた。③人間の「本質」が曖昧なままであっても、「人間的」(human)という言葉が普通に用いられるのと似ている。
詳しくは続きを読むで。
おもいっきり経済学の話ですね。
そう。おもいっきり経済学の話で、しかも中央公論新社の本だ。
あの緑と白の表紙が特徴的な、お堅い本ばかり出している出版社ですか。
左様。本書はゴリゴリに硬い経済学本。件の一文は本書の第3章「インフレーションの不安」の小節「マネーの定義の難しさ」の中に出てくる。
なら、今日は経済学の講義? 貨幣の定義に関するお話でも?
いいや違う。我々K林ゼミナールの学生たるもの、そのように安直で、既に語りつくされたようなことは議題に上げない。
K林ゼミナールは常に独自性と新規性に満ちた議題を求めているのだ! ドドン!
(なるほど。本音は?)
(専門知識が必要になるようなことは、調べるのが面倒なので書きたくない)
(経済学的な雑学を期待した人にごめんなさいをしておきましょう)
(経済学的な雑学を期待した人へ。ごめんなさい)
おっほん。では、仕切り直して本題に入る。
今回我々が取り上げるのは、貨幣の定義がどうという専門的知識ではなく、むしろその専門的知識の記述の仕方である。
というと?
引用した文章には番号が振ってある。経済学の専門知識には踏み込まなくていいから、とりあえずそれを整理して、いつものように簡略化してほしい。
了解。
①専門知識
どんな資産が「貨幣」と言えるのか定義するのは難しい。
②ハイエクの言葉
「貨幣」を名詞として用いるのは難しいが、「貨幣的」という形容詞に関する理解は意外に共通するものがある。
③著者の言葉
人間の「本質」が曖昧なままであっても、「人間的」(human)という言葉が普通に用いられるのと似ている。
といったところでしょうか。
いつもながら素晴らしい要約である。
それで、我々はここから何を得ればいいんです?
番号の文章を順番に見ていこう。まず①について、これは経済学の専門知識で間違いない。さっきも言ったが、ここにはそれ以上踏み込まない。
次に②のハイエクの言葉だが、これは①の専門知識を象徴するような言葉となっている。
専門知識を象徴?
専門知識から肝となる理論を抜き出し、その肝を一般人にも解るような語彙で表現した言葉のことだ。
どんな資産が「貨幣」と言えるのか定義するのは専門家の慧眼を以てしても難しい。同引用文の少し後の記述には、貨幣と貨幣類似資産の間には貨幣性の濃淡のある多くの資産が並んでおり、マネーサプライ統計の中にどのような流動資産が含まれるかは国によって違うと、と書いてある。
②の文章は、こうした経済学上の「貨幣」の定義の決定不可能性を、専門用語によってではなく、一般人にもわかる自然言語で表現している。
「貨幣」を名詞として用いるのは難しいが、「貨幣的」という形容詞に関する理解は意外に共通するものがある。すなわち、「貨幣的」であるような性質が存在は認められても、「貨幣」そのものを正確に言い表すことは出来ないと。
なるほど。②の文章には、一般人にも解るようにするための、まとめの一文的な効果があるってことですか?
聡い君ならそう言うと思っていたよ。
しかし違う。②は専門知識を象徴化した一文であって、ただ内容をまとめただけの一文ではない。それは次の③によって示される。
③は著者の言葉でしたね。
人間の「本質」が曖昧なままであっても、「人間的」(human)という言葉が普通に用いられるのと似ている。
ここで考えてほしいが、この③の文章は本来経済学とは全く関係のない言葉ではないか?
そうですか? 文章としては自然な流れですし、関係あると思いますけど。
それは①と②の文脈があるからだろう。文脈を抜きにして、③単体で考えてほしい。
すると、これは学問の世界にいる経済学者の口からというよりも、むしろ人間関係に悩む思春期の少年少女が、モノローグで語るような内容であると思う。
こう、教室でクラスメイト達を眺めながら。
人間とは何なのだろうか。人間の「本質」は曖昧だが、どうして「人間的」という言葉が普通に用いられるのだろうか。
というように、③は学問のロジカルが生み出したというより、一般人が日常世界の中で想像しうるような言葉なのだ。
一般人はこんな文学的なモノローグはしないと思います。
一字一句この通りにモノローグしている必要はないさ。人間だれしも「人間」と「本質」について考えたことはあるだろう。
まあ、それなら確かに。
③は一般人が日常世界で想像しうるような言葉ということで間違いない。
反対に②については、専門知識のない一般人には生み出せない言葉といえる。「貨幣」の定義の難しさを知っているだけの人間が、「貨幣」であることと「貨幣的」であることを区別できるからだ。
それも確かに。
ではここで、②と③の区別を明確にするために、②を専門知識が象徴化された言葉、③を日常世界の言葉と呼ぶことにしよう。
ここらで一回、今までのことを纏め直してくれたまえ。
りょ。
①学問の世界の専門知識
どんな資産が「貨幣」と言えるのか定義するのは難しい。
②象徴化された言葉
=専門知識から肝となる理論を抜き出し、その肝を一般人にも解るような語彙で表現した言葉のこと
=「貨幣」を名詞として用いるのは難しいが、「貨幣的」という形容詞に関する理解は意外に共通するものがある。
③日常世界の言葉
=一般人が日常世界の中で想像しうるような言葉
=人間の「本質」が曖昧なままであっても、「人間的」(human)という言葉が普通に用いられるのと似ている。
さあ、ここからが重要なことを言うぞ。
通常、一つの文章の中で①と③は結びつかない。学問の世界の言葉を、いきなり日常の世界に結び付けることは出来ないからだ。
ええ。
しかし、当一文については、学問の世界と日常の世界が文章の中で自然と結びついている。それは、②と③の働きに由来するものだと思う。
②では専門知識が象徴化されている。専門知識は象徴化されると、その肝の理屈が、一般人にも理解できるような言語となる。複雑な周辺知識が削ぎ落され理論の肝が理解されたなら、それを一般人が想像できるような事柄を使って比喩することにより、日常世界への連携が可能となる。そういう意味で、③は象徴化された言葉を、日常世界へつなげる比喩表現だと言える。
ややこしくなってまいりました。そこ、ブラウザ閉じないで。
ここで、日常世界と共通の言語の土台を持つような、象徴化された世界のことを、表現世界と呼ぶことにしよう。
すると、当一文について、①と③が結びつくのは、次のような仕組みによるものだと言える。
①の専門知識は、②によって象徴化され、日常世界と同じ言語の土台を持つ表現世界へと到達し、③の比喩により、表現世界と日常世界が結び付けられる。通常結びつかなはずの学問と日常の世界を結びついているのは、表現世界がその中間に媒介しているからである、と。
ややこし過ぎるので図式化しましょう。
頼む。
そうそれえぇぇ! 君すごく有能! 私の言いたいことは全てこの図式に全て詰まっている!
図式製造マシーンと呼んでください。
さあ、ここで語った①~③の流れについてだが、私はこれを「象徴化と比喩の連携」と言っている。※
(※当ブログ管理人の造語です。近いことが書いてある本を知っていたら教えてください)
専門知識が象徴化されて表現世界に至り、それが比喩されて日常世界に落ちてくるような文章の流れの事ですね。
その通りだ。
個人的な話だが、学術書を読む面白さは象徴化と比喩の連携にあると思っている。
小難しい専門用語の応酬の中から、表現の世界へと至れるような、象徴化された一文を見つける。更にそれを日常世界に落とせるような比喩を探すか、あるいは読者である私がソレを造り出す。
この営みが、なかなかどうして面白い。
一般に、優れた表現というと、万人に理解されるような文章のことを指すと思うが、それだけではないと私は思っている。専門的なことを日常世界の言語で書き下すことだけに、「優れた表現」の称号を独占させるわけにはいかない。
学問世界から日常世界への連携。それ自体もまた表現の一種。
確かに水に携わるスポーツ選手の多くは、水中での泳ぎの速さや、水中の演技の美しさを競っているだろうが。
空中の高台から水中への飛び込み方、それ自体を競う競技もあるように、如何にして異なる世界を結びつけるかもまた、一種の表現として、評価されるべき対象なのだ!
今のは
①専門知識
象徴化と比喩の連携について。
優れた表現を単に、専門的なことを、日常の世界の言語で書き下すことだと捉えてはいけない。
②象徴化された言葉
学問世界から日常世界への連携、それ自体もまた表現の一種。如何にして異なる世界を結びつけるかもまた、一種の表現として、評価されるべき対象である。
③日常世界の言葉
確かに水に携わるスポーツ選手の多くは、水中での泳ぎの速さや、水中の演技の美しさを競っているだろうが。空中の高台から水中への飛び込み方、それ自体を競う競技もある 。
という流れになっております。②と③は文章の中に入り組んでいることもあり、②→③というように必ず順番になるわけではないです。
聡いな。T中君、やはり君は私の一番弟子だ。
ありがとうございます。でもM子先輩。
何かね?
どこからか、表現世界なるものを設定することに何の意味があるのかという批判が聞こえてきます。
ええいそのような現実主義者の戯言は蹴散らしてしまえ!
当ゼミナールは今時珍しい神秘主義を掲げております。
では、最後に神秘主義K林ゼミナールの学生が、もう一つ例文を作ってみようと思う。
K林教授はずる賢い。彼女は碌に仕事をせず、担当の講義の時間以外はずっとユーチューブを見て遊んでいる。本来彼女がすべき仕事のほとんどを、ゼミ生である私が代わりにやっているくらいだ。その癖に、K林教授は講義でははきはきと喋り、廊下を歩くときはいつも忙しそうに振舞うするので、彼女はみんなから働き者だと思われている。
まるでショーに慣れ切って向上心を失ったイルカのようである。ショーの時だけ張り切っているフリをすればいいと思っていて、水槽に戻るとすぐに客から見えない暗闇で横になりゴロゴロし始めるイルカ。
差し詰め私の苦労は怠けイルカを飼う飼育員と同じだろう。太るから動けと、言葉も通じない相手に、彼女の集客効果のおかげで経営が成り立っていることに若干の負い目を感じながら、とにかく動けと言い続けるのである。
①専門知識
K林教授と私について
②象徴化
K林教授はショーに慣れ切って向上心を失ったイルカ。私の苦労は怠けイルカを飼う飼育員。
③日常世界
差し詰め私の苦労は怠けイルカを飼う飼育員と同じだろう。太るから動けと、言葉も通じない相手に、彼女の集客効果のおかげで経営が成り立っていることに若干の負い目を感じながら、とにかく動けと言い続けるのである。
ということですね
その通りだ。
今後もこういう構造の文章を見つけたら名文として取り上げていこうと思う。
今日は長かったですね。しかも内容も極めて真面目でした。
長い講義が成り立ったのは、T中君。君のまとめ能力が卓越しているからだよ。
それほどでも。
うーっす。いつも定時ギリギリまでバリバリ働くことでお馴染みのK林教授が来たわよー。
あ、教授。こんにちは、今日の名文紹介ですが。
どれどれ? コレ?
あ!
(そっちはM子先輩が書いた例文の方)
…………。
ちちち、違うんです! そっちじゃなくて! あわわわわわ! 下線部①が専門的内容でえーとえーっと!
ギルティー。M子君、君には特別課題を課す。この猪木武徳(2012)の『経済学に何ができるか』を読んで内容を纏めてきなさい。君はいい加減、理論を読み飛ばすような神秘主義的な読み方をしないで、キチンと経済学を学びなさい。
あああああああああん! そんなああああああああああああああああん!!
では私は今日もユーチューブを視聴することにする。怠けイルカではないぞ。講義に向けて精神を養うのだ。
今日もK林ゼミは平常運転です。