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【詩の降り注ぐ場所】俳人能村登四郎の句碑を実際に訪れて、自分も一句詠んでみた。【国府台陸上競技場】

M子
突然だが、私は今とある一冊の本と向かい合っている。見て欲しい。

T中
え、ええ。見ます。

T中
はぁ。『詩の降り注ぐ場所』ですか。なんですかこの本は。

M子
まあまあ今回は長い話になるので、詳しくは「続きを読む」をクリックしてくれ。読む人は覚悟してくれよ。長いからな。

M子
表紙にも書いてある通り、これは鈴木比佐雄という人が書いた詩論集だ。正確なタイトルは『詩の降り注ぐ場所―詩的反復力Ⅲ(1997-2005)』である。出版社はコールサック社、発行日は2005年12月25日。

T中
なるほど。詩論集でしたか。『詩の降り注ぐ場所』というのは文字通り詩的なタイトルですし、表紙のデザインも少しオシャレですね。で、この本がどうかしたんですか?

M子
ああそれが、実は私がこの本と出会ったのは数年前の話でな。私が実家の滋賀県から大学卒業と共に上京し、千葉県に住み始めて間もない頃、千葉県市川市内のとある古本屋でこの本を見つけたんだ。その如何にも詩的なタイトルと表紙の美しさに惹かれ購入した。

T中
はいはい。数年前に古本屋で購入した本ですと。

M子
そして、あれから数年の月日が流れ、今年の5月下旬。私は急に夢で神様からお告げを得た。

T中
え? 神様からのお告げ?

M子
こんな感じ。

読書の神
M子よ。滋賀の大学を出た立派な文士M子よ。お主、大学時代に古本屋で表紙や装丁がカッコいいからという理由だけで買ったはいいもの、結局読んでいない本がたくさんあるじゃろう? 一人暮らしの今でも本棚からはみ出て残っとるじゃろう? もう社会人になって5年も経つのでいい加減読むとよい。ふぉっふぉっふぉ。

T中
はぁ。妙に砕けた神様ですけど、とにかく文士M子先輩は積読していた本を読もうという気になったんですね。

M子
ああそうだ。大学時代や上京したての時は本ばっかり読んでいたものの、実際に働き始めてから色々あって、めっきり本を読まなくなっていたからな。ちょうどいい機会なので、夢のお告げの通り積読していたものを消化していくことにした。

T中
いいことじゃないですか。それでM子先輩は長らく積読していた『詩の降り注ぐ場所』という本を読み始めたわけですか?

M子
まあまあ話を焦るな。少し待て。すぐに読み始めたわけじゃない。

T中
はぁ。

M子
というのも積読している本は他にもあったんだ。高校までは一切本を読まなかった私だが、大学生になると急に哲学や思想に興味が湧き始めた。地元の図書館で借りた哲学の新書を読破したことをきっかけに、自分の読書力に自信がついて、どんどんと本を読むようになった。日がな古本屋を巡り歩いて難し気な本を買い漁っていたよ。

T中
なるほど。大学時代に哲学に熱中するだなんてすごくいいことじゃないですか。

M子
ふっ。そうかね。本当はただ自分に酔いしれていただけだよ。古書店にしか置いてないような、一体誰が読んでいるんだと言いたくなるような難解な本を、大学の中庭のベンチで読む自分にね。ま、よくある大学生の文学青年気取りという奴だ。

T中
ええ。そんな文学青年気取りと言わず、大学時代に本を読むのは素晴らしいことですから。

M子
そうだな、良いか悪いかで言えば、良いことだったんだろうな。だから、私は大学時代に買った本を今も全部大事に残しているんだろう。読み終えた本も、読み終わらなかった本も。一人暮らしを始めて三回くらい引っ越しを経験したが、その度に段ボールに詰めていた。自分で買った本は一冊も捨てることなく、今でも持ち続けているよ。

T中
大事にしているからこそ、夢で神様からお告げを得られたんですね。

M子
ああそうだ。それだけ大事なら読んだ方がいいぞって私の中の無意識が教えてくれたんだ。そんな事情もあり、最近の私は一冊ずつ大学時代の積読を解消していった。その過程がこちら。

T中
うわぁい。全部重そうな本だ。こんなの誰が読むんですかー。

M子
当時20歳前後の私は、自分は読書の申し子だと信じていたので、それはもう重くて小難しい本ばっかり買っていたよ。これらの紹介は割愛するが、『日本のもの造り哲学』だけはスッキリと内容を理解しながら読めた。その他の二冊はお世辞にも理解できたとは言えない。『組織のなかの人間』は硬い文芸評論、『美学』は認識論をこねくり回す哲学書だよ。私にとってのそれらは毒沼を平泳ぎをするような読書だった。読書中はずっと頭の中がこんがらがり何度ページを巻き戻して読み直そうとも著者の理論を紐解けない。本物の哲学書や文芸評論というのは、所詮文学青年気取りには解りはしないのさ。読後はいつも同じ。この読書で何を得たのかも解らないまま、とにかく読み終えたという安堵感だけが残る。

T中
・・・。

M子
結局、本物の読書の申し子というのは、こういう本をさらりと読んでしまうような人をいうのだろうな。私にとっては毒沼でも、彼らには栄養の湖になるのだろう。彼らは毒を消化する特殊な酵素を持ち、毒沼の中でも自由に呼吸をし、私が息を止めることでしか乗り越えられない文章の拘泥を、人魚のように周囲を浄化しながら切り抜け、著者の深淵な主張を紐解く。そして読後は現実の世界へと確かな知識を持ち帰る。所詮、毒沼を泳ぎ切ったという安堵感しか得られない私は、読書界の中では偽物だったというわけだ。

T中
そんな、偽物だなんて言わないでください。読むだけで凄いと思いますよ。普通はこんな本読めませんし。

M子
そう言ってくれるならありがたいよ。僕はただこの文章の大沼の中で、溺れてしまわないように、必死で息継ぎをしていただけだというのに。

T中
え、ええ。

T中
(……なんか、モード入ってるな。これ文学青年モード入ってんな。)

M子
じゃあねT中君。僕はもう行くよ。次の毒沼にね。大丈夫さ、息継ぎだけは得意なんだ。死んでしまうことはないよ。ただ、君には見守っていて欲しい。僕の泳ぎを、僕の読書を。難解な読書の後に安堵感しか得られない僕は、読み終えたことを誰かに伝えることでしか読書に意義を見出せない。それはそう、さも水泳を習う子供が「お母さん、今日は足を着かずに25メートル泳げたんだよ」と言うようにね。無垢に無邪気になることだけが唯一の生きる方法なのさ。さてT中君、水泳の子と僕の違いは、何か解るかい?

T中
わ、解りませんけど。

M子
簡単だよ。絶望を知っているか否かというだけさ。彼は自由の中を泳ぎ、僕は絶望の中を泳いでる。

T中
完全に文学青年モードになっとるー。絶望とか言い始めとるー。

M子
そうさ絶望さ。絶望に至る病なのさ。この病の中を生きるには、ひたすら無垢に無邪気になるしかない。僕が僕であるためには、幼い頃の純真さに縋るしかないのさ。そしてこの純真を誰かに認めても欲しい。僕が小難しいタイトルの本を読破しているところを、母親のような目で見守っていて欲しい。

T中
解った。解りましたから。

M子
見守ってる? 見守ってる? 僕のこと見守ってる?

T中
ええ見守ってますよ。早く『詩の降り注ぐ場所』を読んでください。まさしくポエミーなM子先輩にぴったりの本でしょうに。

M子
うん。そうだね。『詩の降り注ぐ場所』はポエミーな僕にぴったりだね。でも読む前に、ちょっとだけ中身確認していい?

T中
はい、どうぞ。

M子
はーい。敵情視察ぱらぱら~。中身は著作権保護のためにモザイクにしてますよ~。

T中
あ。この本、二段組ですね。珍しい。

M子
・・・奥付も見とくか。

T中
全部で約370ページです。読み応えありますよこれ。

M子
・・・。

T中
・・・。

M子
T中君、そろそろこの記事の本題に入ってもいいかな。

T中
どうぞ。もう記事は始まってますよ。

M子
私にはこんな本読めないよ!! ぶ厚すぎるよ!! 芸術論の内容で370ページは多すぎるよ! しかも二段組なんてもう読む気が全く湧いてこないよ!!

T中
(やっぱりそう来たー。さんざん溜めておいてそれかー。)

M子
大体なんだよ詩論って!? 詩論なんて聞いたことないよ!! 聞いたことないから買ったのにいざ読もうとすると全然手が進まないよ!

T中
おら、毒沼でも泳げるんだよ。早く行けよ。

M子
だああああああああああ!! 嫌だああああああああ!! もっと軽い本が読みたああああああああい!!

T中
ぜ~つ~ぼう♪ ぜ~つ~ぼう♪

M子
ああ神よ!! 読書の神よ!! 貴方が本物ならば、私の願いを聞いて欲しい!!

T中
無駄無駄ァ! 読書の神様なんていないんだからァ!

読書の神
なんでおじゃ。

T中
って本当に現れるんかーい。

M子
神よ!! どうか私にライトノベルを読ませて欲しい!! 涼宮ハルヒを、バカとテストと召喚獣を、生徒会の一存を!! 詩論はいったん置いといて!! 今は2時間くらいで読める軽い奴を読ませて欲しい!!

読書の神
積読を全て解消したら自由に本を読んでもよいです。

M子
だあああああああああああああああ!! 神よおおおおおおおおお!! どうしてええええええええええ!!

T中
(しかし、文士M子先輩の祈りは空しく、読書の神様は非情にも積読消化命令を出すのでした)

読書の神
皆も読書するでおじゃ。積読解消するでおじゃ。

・・・
・・

M子
つー。読書の神も去ったことだし。いい加減読むか。

T中
はい、見守ってますよ。

M子
へーい。まあこの本『詩の降り注ぐ場所』は、詩論と言えども『詩論集』だし一個一個の小節が一つの小論文みたいになってて読みやすそうではあるんだよな。難しめのエッセイ集だと考えれば、さほど臆する必要はないだろう。

T中
ええ、どんどん読んじゃってください。

M子
一個目の小節だけ読んで無理だと思ったら撤退して別の本を読む。積読している本はまだまだあるからな。

T中
活字の大海へいってらっしゃーい。見守ってますよー。

・・・
・・

M子
そうして私は『詩の降り注ぐ場所』の一番最初の小節『「春の槍」を投げた能村登四郎と福永耕二』を読み終えた。10ページほどの小論で文体も癖がないのですぐに読めた。

M子
簡単に内容を説明しようと思う。著者の鈴木氏は詩人であるが、彼の持つ詩作の精神には、能村登四郎と福永耕二という二人の俳人との出会いが関係しているらしい。能村氏も福永氏も鈴木氏の高校時代の教師で、小論の前半は鈴木氏の生い立ちと高校時代のエピソード、そして二人の恩師の人格が詳しく描写されている。

M子
後半になると話題は能村氏へとフォーカスが移り、彼の生い立ちや職歴、そして俳人としての思想が、彼の作った俳句と共に考察されている。最後に亡くなった能村氏へご冥福をお祈りしますと言って終了。まあよくある、恩師が亡くなったので今一度自分の人生と師匠の教えを振り返ってみた、という感じのエッセイだな。

M子
さて、ここからは私自身の話。実は私も俳句や川柳が好きで、気に入ったものはスマホにメモしているほどである。そして『「春の槍」を投げた能村登四郎と福永耕二』を読み終えた今、私のメモに新たな一句が追加された。

春ひとり 槍投げて槍に 歩み寄る

M子
これは本の中で紹介されていた能村氏の一句である。

M子
この句を見た瞬間に私の直感がぴっきーんと働いた。これは素晴らしい句だぞと。単純に文字面だけの意味を考えれば、春に槍投げの選手が一人で槍投げの練習しているというだけの句である。槍投げ選手が練習中に自分で投げた槍をもう一度自分で投げるためにその槍に歩み寄る、という一連の動作を切り抜いた写実的な句とも言える。

M子
だが、私はこの句をただの写実的なワンシーンとは捉えず、『果てしない自己研鑽をする人が持つ内面世界の表現』だと解釈した。

M子
というのも、句からイメージできる情景がとても美しく、また槍を投げて自分で拾うという動作の反復性が容易に想像できるからである。

M子
皆、槍投げのシーンを想像して欲しい。槍投げって水平的な引きの画を想像しないか? つまり上には空があり、奥には地平線があり、手前に陸上競技のトラックがあり、その中に一人槍を構える人がいる。たまたま通りがかった私はそれを遠巻きに見ている。赤の他人である私にはあの陸上競技のトラックの中に入ることも、彼と同じ画角に入ることすら許されない。なぜなら、彼の槍を投げて自分で拾うという一つの動作を見るだけで、あの人はずっとソレを繰り返しているんだ理解するからである。彼と同じ世界を生きる社会的動物としての本能が、他人の自己研鑽の邪魔をしてはならないと直感するからである。

M子
そこにあるのは孤独となって自己研鑽に励む人の美しさ、そして洗練されゆく動作の反復性だけがある。何者も彼の邪魔をしてはならない。ただ遠巻きに見ることだけか許される。果てしない空、地平の果ての水平線、陸上競技のトラック、槍の描く放物線、反復練習を重ねた人間だけが出来る洗練された動作、日が暮れるまで永遠と続くであろう静謐な時間。いわばこの句の情景は孤独となって自己研鑽する人の内面世界の風景が、そのまま我々の目に見えるように外界に映し出されているようなものなのだ。

M子
それが「春ひとり 槍投げて槍に 歩み寄る」の私の解釈である。

M子
いやなかなかどうして、神々しい。神々しい句だぞコレは! 百年に一度の名句ではないか!

M子
……まあしかし、私の趣味を言うと、実はこの句の「春ひとり」の部分は好きではない。だって、せっかく神々しいまでの自己研鑽の世界を表現しているのに、「春ひとり」は安直だし、俗っぽい印象にならないか? 

M子
大体、自己研鑽の内面世界に自然物は似合わない。孤独となって自己研鑽をひたすら続ける時、その背景に桜が咲いていようと紅葉が散っていようと、槍を投げている本人にとっては関係がないような気がする。むしろ季節を忘れるほど没頭するのが究極的な自己研鑽というものではなかろうか。

M子
よって私はこの句の「春ひとり」の部分を「線ひとつ」にしたい。

線ひとつ 槍投げて槍に 歩み寄る

M子
ここで言う「線」とは槍が描く放物線のことかもしれないし、陸上競技場のトラックのラインかもしれない。背景の奥を走る地平線ともとれるし、もしくは槍を投げる彼自身が心に定める目標のこと、あるいはその目標のために努力し続ける彼の信念を指しているとも言える。

M子
つまり、自己研鑽をする人を表現するのに必要なのは桜の美しさではなく、その内面世界を貫く一つの線の如く不変性なのである。槍の放物線、陸上競技のトラックのライン、地平線、目標、信念。そのどれもが不変の線の一本で表現できる。そういう意味で私は「春ひとり」ではなく「線ひとつ」を推す。

M子
いや、名のある俳人の句を私が訂正するだなんておこがましいことだが、ただ、私はどうしてもこの句を読んで「春ひとり」の部分に違和感を覚えるのである。そしてこの違和感の正体を探るべく考えを巡らせる。

M子
そもそも何故私がこの句に惹かれるかって、それは冒頭でT中君とも話した通り、私が文学青年気取りの孤独な大学生だったからである。ただ哲学を理解したいという陳腐な憧れで本を読み始め、半分も理解できないのに難解な哲学書を買っては苦しみながら読んでいる。読み終わったら次の本を手に取り、大学の中庭のベンチでそれを読む。

M子
傍目から見た私はさぞ近寄り難い存在であっただろう。そして無心でページを捲るその手の動作は永遠の反復性を想像させる。現実社会を生きる者の鉄則、他人の自己研鑽を邪魔してはならない。故に誰も私に話しかけられない、私と同じ画角にすら入れない。まさしく、私は一人で「槍投げて槍に歩み寄る」状態そのものだったのだ。

M子
そう考えるとやはり「春ひとり」はおかしい。何故なら私自身が、そうやって読書に励んだ時の季節なんて覚えていないからである。私が座っていた大学のベンチの横に桜が咲いてたのか紅葉が散っていたのか。暑かったのか寒かったのか。そんなことは覚えていない。

M子
思い起こせるのはただひたすら苦くて果てのない孤独の世界。季節など知ったことではなかった。

M子
そういう意味でも、「春ひとり」ではなく「線ひとつ」の方がしっくりくる。

M子
……。

M子
……が、ここで私はある一つのことに気が付いた。私は孤独な自己研鑽の果てに、何を思ったのかと。

M子
そう、T中君にも言った通り、私はこの無謀な読書を誰かに見守っていて欲しいと思った。難解な読書の後に所詮安堵感しか得られない私は、それを誰かに伝えることでしか読書に意義を見出せない。さも水泳の子が「今日は足をつかずに25メートル泳げたよと」と言うように、私にもこの努力を純真に伝えられるような、母親のような存在がいてくれればいいと思った。

M子
なるほどそういえば、生前の能村氏は教職であったらしい。ということは、彼はどちらかというと自分自身が自己研鑽するよりも、誰かの自己研鑽を見守る立場でいることの方が多かったのではなかろうか。つまり、能村氏は「見守る人」の立場としてこの句を詠んだのではなかろうか。

M子
私が大学時代に難解な哲学書を読んでいた時、それが春であったか、夏であったか、秋であったか、冬であったか。私自身にはもう思い出せない。

M子
だが、もしも当時の私の様子を見守っている人がいたのなら、その人は言ってくれるのかもしれない。「君はいつも桜の木の下で本を読んでいたよ」と。それは苦いだけの孤独の記憶に彩をつけてくれる言葉だと思うし、そしてそれはまた――他者の孤独を季節の情景と結び付けて表現することは――とても温かい人間的な営みであると思う。

M子
ああそう考えると、この句の意味に納得がいったよ。この句は自己研鑽の内面世界を表現すると共に、その孤独を外部からそっと見守る人の句なのだ。だから「春ひとり」にして情景に彩をつけているのだ。その美しさは決して孤独な自己研鑽だけが作り出すものだけではないと、必ず貴方を見守っている人がいるんだよと、一人で槍を投げ続ける彼に伝えるために。

M子
私の感じた違和感の正体も解った。私は自己研鑽を積んだ割に、それを誰からも見守られたことがないし、また他の誰かの自己研鑽を見守ったこともないんだ。だから自己研鑽の情景に季節感を見出すことが出来ず、「春ひとり」よりも無機物的な「線ひとつ」の方が適切だと思った。

M子
「春ひとり 槍投げて槍に 歩み寄る」か。いい句だなまったく。文士M子の思想とは少々相容れないがね。

・・・
・・

M子
さて『詩の降り注ぐ場所』の同じ小論の中に書かれていたことだが、この「春ひとり~」の句は千葉県市川市国府陸上競技場という所に句碑が建てられているらしい。偶然にも私も市川市に住んでいて、しかも電車で10分ほどで行ける場所なので、私は実際にこの句碑を訪れることにした。

M子
6月も下旬の蒸し暑い真昼間、京成線の国府台駅に降り立つ。松戸方面に続く坂道を上り続けると、ちょうど和洋女子大の前あたりに、件の陸上競技場への入り口が見えてくる。

M子
市川市スポーツセンター。この奥に陸上競技場があるらしい。なんだか工事中みたいに見えるけど、入れるかな?

M子
工事中の所をぐるっと回ると陸上競技場エリアへと入れた。さて「春ひとり~」の句碑を探そう。

M子
すぐに見つけた。なんと立派な石碑である。画像では見にくいかもしれませんが「春ひとり槍投げて槍に歩み寄る 登四郎」と書いてあります。

M子
出会いの証として『詩の降り注ぐ場所』の本を添えてみた。

M子
さて、ここで文士M子、心の一句。

槍投げの 句碑にて本を 添えてみた

M子
そのままだな。ぜんぜん面白くない句だ。

M子
あそうだ。どうせなら「春ひとり~」に対するアンチテーゼを詠んでやろう。

季節なぞ 覚えていない 我が孤独

M子
更にアンチテーゼ召喚。えーい。

果てなきを 求める我には 季語不要

M子
ふふふ。槍投げの句碑の前でこんな句を詠むだなんて、能村ファンに怒られてしまうかな。いいや私は孤独と共に生きる文士M子。誰からも理解される必要はあるまい。それこそ「槍投げて槍に歩み寄る」だ。私にだけ解るんだよ――この季節も情緒もひったくれもない、孤独な世界の美しさがな。

M子
(くぅ~、かっけ~。句碑の前で孤独を語る私かっけ~。痺れるぜ。これでこそ文学青年だ。)

M子
さーてと、いい句が詠めたし、そろそろ帰るか。帰りに本屋でラノベ買ってかえろーっと。『詩の降り注ぐ場所』はまだ10ページしか読んでないけど、素晴らしい一句に出会えたし、しばらく読まなくていいや。あと半年は積読行き決定。最近流行りのラノベは何かな~。

??
ダメでおじゃ。

M子
……ん? この声は?

読書の神
『詩の降り注ぐ場所』を読み終えるまで他の本を読むのは禁止でおじゃ。

M子
そ、そんなぁ! 読書の神よぉ! 貴方は少し寛容になるべきだ! 本来読書は自由であるべあってだな!

見守り人T中
見守っていますよ~。『詩の降り注ぐ場所』残り360ページを読み終えるまで見守っていますよ~。

M子
だああああああああ!! 人の孤独を勝手に見守るんじゃありませーーーん!!

・・・
・・

M子
(文士M子、結びの一句)

果てなきを 見守る人の 句のぬくみ

 

おしまい

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キャラ紹介 K林教授

我らがK林ゼミの教授
自分は世界一優れた洞察眼を持っていると思っている
真剣に仕事していそうなときは、大体ユーチューブを見ている
好きなユーチューバーは東海オンエア、もこう、れいえもん、QuizKnock、FateGames、最終兵器俺達 などなど

M子学生

K林ゼミの学生のM子
真面目、一般人、ツッコミ。だがピンク髪
読書家
ぷよぷよで7連鎖できることが誇り

T中番長

K林ゼミの番長
目つきが急に悪くなる、一番後輩
定時で変える勢
煽るときの顔に定評がある